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東京高等裁判所 平成4年(行ケ)16号 判決

原告 フジテック株式会社

被告 株式会社日立製作所

主文

特許庁が昭和63年審判第10692号事件について平成3年11月21日にした審決を取り消す。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第1当事者双方の求めた裁判

1  原告

主文同旨

2  被告

(1)  原告の請求を棄却する。

(2)  訴訟費用は原告の負担とする。

第2請求の原因

1  特許庁における手続の経緯

被告は、名称を「群管理エレベーターのホール呼び割当方法」とする特許第1150639号(昭和49年5月22日出願した昭和49年特許願第56488号の一部を昭和55年10月15日に特許法44条1項により分割して新たな昭和55年特許願第143009号として出願、昭和57年8月25日に昭和57年特許出願公告第40068号公報により出願公告、昭和58年6月14日設定登録。以下この特許に係る発明を「本件発明」という。)の特許権者である。

原告は、昭和63年6月13日、本件発明について無効審判を請求し、昭和63年審判第10692号事件として審理された結果、平成3年11月21日「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決があり、その謄本は平成4年1月13日原告に送達された。

2  本件発明の要旨

複数の階床をサービスする複数台のエレベータを並設し、各エレベータ毎に算出した評価指数が最適なエレベータにホール呼びを割り当てるものにおいて、各エレベータ毎に既に割り当てられているホール呼びに対する待ち時間を算出し、この既に割り当てられているホール呼びに対する待ち時間を上記評価指標としたことを特徴とする群管理エレベータのホール呼び割当方法

3  審決の理由の要点

(1)  本件発明の要旨は、前項記載のとおりである。

(2)  これに対し、審判請求人(原告)は、

a 1970年10月にGORDON DAVID CLOSS氏によって執筆された英国マンチュスター大学の学位論文「THE COMPUTER CONTROL OF PASSENGER TRAFFIC IN LARGE LIFT SYSTEMS」(審判事件における甲第1号証、本件審決取消請求訴訟事件における甲第2号証。以下「本件書証」という。)

b 1987年9月7日付マンチュスター大学のG・C・バーニー博士からフジテック株式会社の石丸治氏に宛てた書簡

c ミルドレッドイェガー氏が作成したマンチュスター大学理工学部図書館所蔵論文借用証

d アーサー・S・プライバー氏が作成したマンチュスター大学理工学部図書館所蔵論文借用証

e ジョセフ・J・ベン・ウリ氏が作成したマンチュスター大学理工学部図書館所蔵論文借用証

f 1987年11月19日付フジテック株式会社の石丸治氏からG・C・バーニー博士に宛てた書簡

g 1987年12月18日付マンチュスター大学の理工学部図書館官吏M・P・デイ氏からフジテック株式会社の石丸治氏に宛てた書簡

h ミルドレッドイェガー氏が作成したマンチュスター大学理工学部図書館所蔵論文借用証

i アーサー・S・プライバー氏作成の宣誓書

j D・レビ氏作成の宣誓書

k ダン・レビ氏作成の「垂直輸送の最適制御」と題する研究論文

を提示し、本件発明は、bないしkの書面により本件出願前に頒布された刊行物に該当するaの論文に記載された発明と同一であって、特許法29条1項3号に該当し、特許を受けることができなかったはずのものであるから、本件特許は、特許法123条1項1号の規定により無効にされるべきであると主張する。

(3)  本審判事件においては、aの論文、すなわち、「審判事件における甲第1号証」の対象とされたものが、特許法29条1項3号にいう本件出願前に頒布された刊行物といいうるか否かについて当事者間に争いがあるので、まずこの点について判断する。

ところで、審判事件における甲第1号証の対象とされているaの論文については、これが1972年ないし1973年当時にマンチェスター大学の理工学部図書館に預けられていたGORDON DAVID CLOSS氏の「THE COMPUTER CONTROL OF PASSENGER TRAFFIC IN LARGE LIFT SYSTEMS」という学位論文の原本(以下この原本のことを「クロス論文」という。)を指し示しているとすると、特許法29条1項3号にいう頒布された刊行物とは、公衆に対し頒布により公開することを目的として複製された文書、図面その他これに類する情報伝達媒体であって、頒布されたものを指すところ、学位論文の原本自体は、他に頒布されるものではないので、頒布された刊行物とは言い得ないので、明らかに、特許法29条1項3号の規定にいう頒布された刊行物とは認められない。

したがって、前記aの論文とは、「クロス論文」の複写物を指しているものと認め、かかる複写物が本件出願前に頒布された刊行物であるか否かについて検討する。

「クロス論文」が1972年12月から希望者が自由に閲覧し得る状態に置かれていたこと、及び希望者には論文の写しが要求により交付される態勢にあったことは、前記bのG・C・バーニー博士の書簡、前記gの図書官吏M・P・デイ氏の書簡から認められる。

そして、このような状況の中で、ミルドレッド・イェーガー氏、アーサー・S・プライバー氏、ジョセフ・J・ベン・ウリ氏等が現実に複写物を入手したと原告は主張している。しかしながら、前記c、d、e、hのこれらの三氏の論文借用証は単に論文の貸出及びコピー送付の申込があったことを窺わせるのみである。前記i、jの宣誓書によっても、アーサー・S・プライバー氏とD・レビ氏が何らかの写しを受け取ったことが認められるのみである。前記kの研究論文からはD・レビ氏が「クロス論文」の存在を知っていたことが認められるのみである。さらに他の前記b、f、gを含めて全体的に判断しても、これらの三氏が「クロス論文」の内容を知ろうとして何かを入手した可能性が窺えるのみである。このように、前記bないしkからは三氏が「クロス論文」の内容を知ろうとして何かを入手した可能性が窺えるのみであって、これらの三氏が本件出願前に入手したものが「クロス論文」の複写物であると認めることはできない。

次に、実際に原告がaの論文の写しとして提出した「審判事件における甲第1号証」に言及すると、この「写し」が「クロス論文」と同じ内容のものであることについては説明がなされていないし、また、この「写し」が前記三氏の入手したものと同じ内容のものであることについても証明がなされていない。それゆえ、原告が提出した本件書証は「クロス論文」を対象とするものであるとも、また、本件出願前に交付を受けた「クロス論文」の複写物を対象とするものであるとも、認めることができない。

よって、本件出願前に「クロス論文」の複写物を入手した者がいたこと、及びその入手物が本件書証の対象とされたものと同じ内容であることを認めるに足りる証拠が提出されていないことから、本件書証の対象とされたものは、特許法29条1項3号にいう本件出願前に外国において頒布された刊行物に該当するものとは認められない。

したがって、本件発明がその出願前に外国において頒布された刊行物に記載された発明と認められ特許法第29条1項3号に該当し特許を受けることができない、とすることはできない。

したがって、原告が主張する理由及び提出した証拠方法によっては本件特許を無効とすることはできない。

4  審決を取り消すべき事由

クロス論文の原本自体が特許法29条1項3号にいう頒布された刊行物といえないとした審決の判断及びクロス論文が1972年12月から希望者が自由に閲覧し得る状態に置かれ、希望者には論文の写しが要求により交付される態勢にあったとの審決の認定は認めるが、ミルドレッド・イェーガー氏、アーサー・S・プライバー氏、ジョセフ・J・ベン・ウリ氏の三氏(以下単に「三氏」という。)がクロス論文の写しの送付を申し込み、その写しを入手したこと、本件書証の内容がクロス論文の内容と同一で三氏の入手したものと同じ内容であることは、明白であるのに、審決は、三氏が本件出願前に入手したものがクロス論文の複写物であると認めることはできず、本件書証がクロス論文と同じ内容のものであることの証明がなされていないし、本件書証が三氏の入手したものと同じ内容のものであることも証明されていないとの誤った事実認定に基づき、本件書証の対象とされたものは特許法29条1項3号にいう本件出願前に外国において頒布された刊行物に該当すると認められないとの誤った結論を導いたから、違法であり、取り消されるべきである。

すなわち、審判手続においてはクロス論文の複写物の頒布性、刊行物性は争点の一つとされたものの、本件書証の内容がクロス論文の内容と同一であることは全く争点となっていなかったが、甲第2ないし第7号証及び甲第13号証によれば本件書証がクロス論文と同じ内容のものであることは、明白であり、また、これらの書証から三氏が本件出願前に入手したものがクロス論文の複写物であることも、明らかであり、審決の事実認定は誤りである。

被告は、本訴において、貸与可能とされ複写された時点からクロス論文に修正が加えられたおそれが否定できない、と主張するが、クロス論文が学位論文であることを勘案すれば、修正のおそれは皆無である。

また、被告は、署名及び図書館印の有無の点で甲第2号証と甲第13号証とで異なるから、本件書証がクロス論文の複写物の一つであることの証明はない、と主張する。しかしながら、原告が審決において本件書証を提出した趣旨は、クロス論文の内容を証明するためであり、本件書証の内容がクロス論文の内容と全く同一であり、三氏がクロス論文の複写物を入手していた以上、署名及び図書館印の有無とかかわりなく、本件書証によりそのクロス論文の複写物の内容が証明されているのであるから、被告の主張は失当である。

5  被告の主張に対する反論

後記第3の3記載の被告の主張は、(1) 及び(2) とも争う。

(1)  原告も本件書証とクロス論文の複写物との同一性とクロス論文の複写物の刊行物性とまでは本訴において審理され、判断されるべきであると考えるが、本訴における審理判断の対象は、それらの点までに限られ、刊行物であるクロス論文の複写物記載の発明と本件発明との同一性は、技術専門官庁である特許庁審判官の判断を経るべきである。

(2)  また、審決は、学位論文であるクロス論文が1972年12月から希望者が自由に閲覧し得る状態に置かれ、希望者には論文の写しが要求により交付される態勢にあった、と正当に認定しており、そうである以上、本件書証による証明の対象とされたクロス論文の複写物は、本件出願前に頒布された刊行物というべきである。

なお、英国の博士学位請求論文は、1950年以降その索引が発行されており(甲第15号証)、公開性が高い。

さらに、被告が引用する二件の最高裁判決の判旨に照らしても、本件書証による証明の対象は、頒布された刊行物であるといわなければならない。すなわち、これらの判例は、「公衆に対し頒布により公開することを目的とすること」を情報伝達体の原本について要求しているのではなく、その複写物について要求しているのであるが、原本で比べれば、学位論文は、判例で問題とされた外国特許明細書、実用新案登録明細書よりも秘密性があるとはいえず、学位論文の複写物は頒布性を獲得しているところ、クロス論文は原本自体が公開されており、現実に複写物が幾人かに交付されたからである。

第3請求の原因の認否及び被告の主張

1  請求の原因1ないし3の事実は認める。

2  同4の審決の取消事由は争う。審決の認定、判断は正当であって、審決に原告主張の違法は存在しない。

原告は、本件書証の内容がクロス論文の複写物の内容と同一であることは明白である、と主張する。

しかし、本件書証が三氏が入手したものと同一であることの証明はないし、1972年に貸与可能とされ複写された時点からクロス論文に修正が加えられたおそれも否定できず、本件書証の内容がクロス論文と同一であるとは断定できない(本件書証とクロス論文の同一性及び本件書証と三氏が入手したものとの同一性は、それを明確にした証拠を原告から提出することは容易であるのに提出されておらず、依然として不明確であり、証明不十分といわざるをえない。)。

そもそも、甲第13号証添付資料4には著者の署名があり、図書館の受入印があるのに、甲第2号証にはこれらの署名及び図書館印がなく、本件書証がクロス論文の複写物の一つであることの証明はないというべきである。

3  仮に、原告主張のとおり本件書証がクロス論文と同一内容であり、三氏の入手したものと同一であって、この点の審決の認定が誤りであると認められても、審決は取り消されるべきではない。

(1)  本件訴訟においては、本件発明と本件書証記載の発明との同一性が判断されるべきであり、少なくとも本件書証が特許法29条1項3号にいう本件出願前に外国において頒布された刊行物に記載された発明とは認められないと結論づけた審決の判断が違法であると判断されない限り、審決を取り消す判決がされるべきではない。

まず、本件訴訟において本件発明と本件書証記載のものとの同一性が判断されるべき理由は、特許庁における審判手続と審決取消訴訟との間に審級の繋がりを認めない通説判例の立場に立ち、行政処分の取消を求める訴えにおける訴訟物は処分の違法性一般であるとする通説の立場に立つ限り、審決取消訴訟の訴訟物は審決に存する実体的及び手続的な違法性一般にあると解するのが論理的帰結だからである。

なお、取消訴訟に審判前置構造が取られている点に何らかの特別の意味を持たせて審理判断の対象を制限しようとする考え方の中でも、取消訴訟における主張立証は審判手続上で提出された主張、証拠に限定されるが、係争の法条違反が審理判断の対象となるとの考え方では、同一の結論が導かれる。また、最高裁昭和42年(行ツ)第28号同51年3月10日大法廷判決・民集30巻2号79頁は、上記の制限を加える考え方のうち、特定の無効事由、拒絶事由となった刊行物のみが審理判断の対象となるとするものを採用しているが、この判例の考え方は、〈1〉審決主文が一個の行政処分である以上、同一審判請求に対する審決は一個の行政処分であると考えるべきこと、〈2〉特許法167条(旧特許法117条)の「同一の事実及び同一の証拠に基づいて」を素直に読めば、同一事実であっても異なる証拠に基づく限り審判請求が許容されると考えられることから、誤っているというべきであり、独占禁止法80条、電波法99条のような明文の許容規定がないのに、上記誤謬を含んだこの判例の考え方に依拠することは、憲法76条に違反するといわなければならない。

そして、本件訴訟において、少なくとも「本件書証が特許法29条1項3号にいう本件出願前に外国において頒布された刊行物に記載された発明とは認められない。」との審決の判断が違法であると判断されない限り、審決取消判決がされるべきではないと考える理由は、行政処分たる審決の取消訴訟である本件訴訟において当事者双方は裁判を受ける権利が保障されており(憲法32条)、裁判所は憲法の定める特別の場合を除いて一切の法律上の争訟を裁判する権限を有している(憲法76条1項、裁判所法3条1項)から、本件書証が特許法29条1項3号所定の出願前外国において頒布された刊行物に記載された発明とは認められないとした審決の結論が違法であるとの原告の主張について審理が尽くされることは、憲法上の要請というべきだからである。

もっとも、前審判断経由の利益論により憲法76条の原則に対する例外が認められるとの議論がある。

しかし、審判官の判断を経たり、一旦目に触れた事実や証拠があるというだけで裁判官の判断作用が補充されるということはできないし、まして、無効事由が本件訴訟で問題とされた特許法29条1項3号の刊行物性は、職業裁判官の習熟した事実認定に関することがらであり、証拠調べや法律解釈に熟達していない審判官による審理に適さない。また、審決取消訴訟はもともと三審制をとることを前提としておらず、特許庁の審判は行政機関による判断にすぎないから、前審判断経由の利益を審級の利益と同様に肯定することも無理といべきである(むしろ、民事訴訟法が控訴審における訴えの変更を認めていることと対比すると、本件においては、本件書証記載の発明と本件発明との同一性が当審において判断されてもやむをえないと考えるべきである。)。

(2)  そして、クロス論文は、特許法29条1項3号にいう「頒布された」ものには該当せず、結局審決の判断は正当である。

すなわち、クロス論文は、博士学位請求論文であり、本来公にされるものではない。単に博士の学位を授与したことについて審査の公正を担保するために大学図書館に保管し必要のある場合に閲覧を許可することがあるにすぎず、閲覧をすることが困難な研究者に対して、閲覧に代わるものとして写しが提供されているのである。博士学位を取得した後にさらに論文に手を入れて場合によってはその論文が出版されることもあるが、博士論文そのものではなく見直しをされたものが通常である。このように博士論文は、公衆に対して公開を目的として作成された文書ではなく、それ自体が不特定又は多数の人に対する頒布を予定されておらず、頒布性を有しない。したがって、学位論文に外部からのアクセスが可能であったとしても、この学位論文の性格が以上のものであるから、この論文の複製物といっても性質が変るものではない。

なお、最高裁昭和53年(行ツ)第69号同55年7月4日第二小法廷判決・民集34巻4号570頁、最高裁昭和61年(行ツ)第18号同年7月17日第一小法廷判決・民集40巻5号961頁等の判例が一般の用語における刊行物の概念を拡張しているのは、あくまでも強い公開目的を持った特許明細書等であり、訴訟記録や土地登記簿謄本等には及しておらず、それらの判例の射程もその限度に限られるというべきである。学位論文を取得した後にさらに手を入れた論文が刊行されることは世上多くあることであり、一般公衆に対する公開目的というより、タイプ文書により、論文審査の公正を担保する目的による論文の公開があっても、刊行物の頒布というべきではない。

第4証拠関係〈省略〉

理由

1  請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本件発明の要旨)及び同3(審決の理由の要点)の各事実並びにクロス論文が審決認定のとおり1972年12月から希望者が自由に閲覧し得る状態に置かれ、希望者には論文の写しが要求により交付される態勢にあったことは、当事者間に争いがない。

2  報告書本体及び添付資料1の成立について争いがなく、弁論の全趣旨によりその余の部分の成立が認められる甲第13号証、弁論の全趣旨により成立が認められる第3号証の1ないし4、第4号証、第5号証の1、2、第6ないし第8号証、第14号証、第16号証と甲第2号証の存在に弁論の全趣旨及び前記当事者間に争いがない事実を総合すれば、次の事実が認められ、この認定を左右するに足りる証拠はない。

(1)  ゴールドン・ディヴィド・クロス(以下単に「クロス」という。)は、1970年(昭和45年)10月、マンチェスター大学理工学部から博士号学位を得るために「大規模エレベータ・システムにおける乗客交通のコンピュータ制御」(原題“THE COMPUTER CONTROL OF PASSENGER TRAFFIC IN LARGE LIFT SYSTEMS”)と題する論文を作成し、同大学に提出し、博士号を取得した。

(2)  クロスは、上記論文が完成した際、業者にその論文のハード・カバー本を六冊製作させ、そのうちの一冊が1971年(昭和46年)1月19日マンチェスター大学理工学部図書館に受け入れられたが、それがクロス論文である。

(3)  他方、クロスは、マンチェスター大学での指導教官であった博士ジー・シー・バーニーに対し、六冊のハード・カバー本のうち一冊を贈呈したが、原告は、同博士からそのハード・カバー本の複写物の送付を受けた。これが本件書証(甲第2号証)である。

(4)  マンチェスター大学理工学部図書館において、クロス論文は、1972年(昭和47年)11月まで閲覧が制限されていたが、同年12月以降下記の三つの要件を満たす限り、申請者が誰であろうとも、申請者にコピーを送付する態勢が採られた。

〈1〉  図書館が申請者から当該論文のコピーを送付することの要求を受領すること。

〈2〉  当該申請者がコピー送付に要する全費用を支払うこと。

〈3〉  当該申請者が著作権法を遵守する旨の宣言書を提出すること。

なお、〈3〉に関して、同図書館では、「論文借用証」という表題のある定型的書式を定めており、その書式には、著作権を遵守する旨の宣言文が印刷されており、その署名欄等に必要な記載をすればすむようになっている。

(5)  これまでに、クロス論文について、マンチェスター大学理工学部図書館には、上記定型的書式による六件の論文借用証が差し入れられてコピー送付がされているが、殊に、1972年から1973年(昭和48年)にかけては、次の三名から署名入の論文借用証が差し入れられてコピーが送付された。

〈1〉  1972年12月14日、テクニオンーイスラエル工科大学のジョセフ・J.ベン・ウリ

〈2〉  1973年4月4日、米国運輸省のアーサー・S.プライバー

〈3〉  1973年6月4日、米国A.O.スミス社のミルドレッド・イェーガー

(6)  原告は、本件発明について請求した無効審判手続において、前記(3) のとおりバーニー博士から送付を受けた本件書証を提出したが、その提出の趣旨は、本件書証によりクロス論文の複写物の内容を立証することにあった。

(7)  原告代理人が、平成3年7月にクロス論文のコピーを取り寄せたうえ、点検したところ、クロス論文にはクロスの署名があり、マンチェスター大学理工学部図書館の受入を示す印が押捺されているのに対し、本件書証では署名部分が記名であり、上記押捺印がないことを除けば、本件書証とクロス論文とは1頁から最終頁まで全く同一の記載であったことが判明した。

3  以上の認定事実によれば、甲第2号証(本件書証)は、クロスによりハード・カバー本として一緒に作成された六冊の学位論文のうち指導教官に対し贈呈されたものの複写物であることが認められ、原本の存在及び真正な成立を認めることができ、この甲第2号証と前記認定事実によれば、本件書証の原本とクロス論文とは、いずれもクロスにより学位論文のハード・カバー本として一緒に作成されたもののうちの一冊で、本件書証とクロス論文とは内容において全く同一であり、そのクロス論文は、少なくとも平成3年(1991年)7月に至るまで加筆又は改変されていないこと、ジョセフ・J・ベン・ウリ、アーサー・S・プライバー、ミルドレッド・イェーガーの三氏(以下においても「三氏」という。)は1972年12月から1973年6月にかけてマンチェスター大学理工学部図書館に申請してクロス論文の複写物を取得したことが明らかであり、三氏が取得した複写物の内容もクロス論文と全く同一であったと推認される。

そうすると、三氏が本件出願前にクロス論文の複写物を入手したこと、本件書証は、そのクロス論文の複写物と同一内容であることを、認定することができる。

もっとも、本件書証は、クロス論文の複写物にあるクロスの署名とマンチェスター大学理工学部図書館の受入印とを欠いており、クロス論文の機械的一次的な複写物ではないことも、明らかにされている。しかしながら、これらの欠落は、論文の同一性を示す部分のしかも実に些細な部分に関するもので、内容に全く係わりがない。また、前記認定事実によれば、本件書証は審判手続においてクロス論文の複写物の内容を証明するために提出されたものであることが明らかであるが、審判手続において刊行物の内容を刊行物原本又は原本の機械的一次的な複写物以外の証拠によって証明することを排斥すべき理由はないから、上記のとおり認定するのに妨げはないといわなければならない。

4  ところで、特許法29条1項3号にいう頒布された刊行物とは、公衆に対し頒布により公開することを目的として複製された文書、図画その他これに類する情報伝達媒体であって、頒布されたものを指すが、公衆から要求をまってその都度原本から複写して交付されるものであっても、上記原本自体が公開されて公衆の自由な閲覧に供され、かつ、その複写物が公衆からの要求に即応して遅滞なく交付される態勢が整っているならば、上記の公衆に対し頒布により公開することを目的として複製されたものであるといって差支えないと解される(最高裁昭和53年(行ツ)第69号同55年7月4日第二小法廷判決・民集34巻4号570頁参照)。

本件において、クロス論文が1972年12月から希望者が自由に閲覧し得る状態に置かれ、希望者には論文の写しが要求により交付される態勢にあったこと、審決がこの点について判断を加えていることは、前記のとおり、当事者間に争いがない。

したがって、本件書証と同一内容である、三氏が本件出願前に入手したクロス論文の複写物は、特許法29条1項3号にいう特許出願前に外国において頒布された刊行物ということを妨げないから、これを否定した審決の判断は誤りといわなければならない。

なお、前記審決の理由の要点によれば、審決は、「クロス論文の複写物が本件出願前に頒布された刊行物であるか否かについて検討する」とし、前記のとおりクロス論文が閲覧複写可能な状態にあったことを認めた上で、三氏が本件出願前に入手したものがクロス論文の複写物であると認められず、また本件書証はクロス論文と同一内容とも認められないと認定判断したものであるから、その認定判断の当否は本件訴訟の審理範囲に属することであり、したがって、本件訴訟において審決のこの点に関する認定判断を誤りとし、三氏が本件出願前に入手したクロス論文の複写物が特許法29条1項3号にいう刊行物に該当すると判断することに法律上何らの制約も存しない(クロス論文の複写物の刊行物性が本訴の判断対象となること自体は当事者が双方一致して主張するところでもある。)。

もっとも、被告は、クロス論文は、博士学位請求論文であって、公衆に対する公開を目的として作成された文書ではなく、不特定又は多数の人に対する頒布を予定されていないから、特許法29条1項3号にいう「頒布された」ものには該当しない、と主張する。しかしながら、前述のとおり、同号にいう「頒布された刊行物」というには原本自体が公開されて公衆の自由な閲覧に供されている必要があるが、原本自体が公衆に対し頒布により公開することを目的として作成される必要はなく、複製されたものが公衆に対し頒布により公開することを目的として作成されれば足り、上記のとおり本件ではこの要件は満たされているのであるから、この被告の主張は失当というほかはない。

5  ところで、被告は、本件訴訟において本件発明と本件書証記載の発明との同一性が判断されるべきであって、この点について判断されない限り、審決取消の判決がされるべきではなく、そのような結論を否定する後記最高裁大法廷判決の考え方は誤っており、この判例に依拠することは憲法76条に違反する、と主張している。

前記審決の理由の要点によれば、審決はクロス論文の複写物が本件出願前に頒布された刊行物であるか否かについて検討し、当裁判所は前記のとおり審決のこの点に関する認定判断を誤りとし、三氏が本件出願前に入手したクロス論文の複写物が特許法29条1項3号にいう刊行物に該当すると判断したものであるから、被告の上記主張は、上記クロス論文の複写物記載の発明と本件発明の同一性を本件訴訟において判断すべきであるとする意味において検討すべきものである。

ところで、特許法は、特許出願に関する行政処分が誤ってされた場合における是正手続については、一般の行政処分と異なり、常に専門的知識経験を有する審判官による審判の手続を経由することを要求し、原処分である特許又は拒絶査定の処分に対してではなく、審決に対してのみ取消の訴えを認め、その訴訟においては、専ら審決の適法違法のみを争わせているのであり、特許無効審判事件に係る審決取消訴訟において審決の判断の違法が争われる場合には、専ら当該審判手続において争われただけでなく現実に審理判断された特定の無効原因に関する判断のみが審理の対象とされるべきものであり、それ以外の点については、その訴訟において審決の違法事由として主張し、裁判所の判断を求めることは許されないと解すべきであり(旧特許法に関する最高裁昭和42年(行ツ)第28号同51年3月10日大法廷判決・民集30巻2号79頁参照)、もとよりこのように解することが憲法76条に違反しないことはいうまでもない。

前記審決の理由の要点によれば、本件において審決が本件発明と前記クロス論文の複写物記載の発明との同一性を判断していないことは明らかであるから、本訴においてこの点について判断することは許されないというほかはなく、被告の主張は失当である。

6  よって、審決の違法を理由にその取消を求める原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担について、行政事件訴訟法7条、民事訴訟法89条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 竹田稔 成田喜達 佐藤修市)

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